わしがチャイコフスキーじゃ 其の壱

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わしの名は、ピョートル・イマイチ・・・じゃなかった、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーじゃ。生まれは1840年4月25日の牡牛座じゃ。カマ川のほとりにあるヴォトキンスクという鉱山町に生まれたわしは、4歳の時にファンニーという若い女性家庭教師に大きな影響を受け、音楽に才能があることに気がついたのじゃ。

その後わしは10歳でペテルブルグの法律学校に入学し、グリンカの「イワン・スサーニン」の上演に接し、痛く感動したのじゃった。そしてわしは友達に「やがてわしは音楽家になるだろう」という内容の手紙をあてたのじゃった。この法律学校時代は、わしにとって人として大きく成長するために大きな意義のある時代であったのじゃ。最愛の母親をコレラで亡くしてしまったのじゃ。このときのショックは言いようがないほど深いものだったのじゃ。だが、その一方でわしの本格的な創作活動が始まったのもこの時期だったのじゃ。

その後わしは義務として、法務省に入り役人として勤務するようになったのじゃが、当時のロシアといったら、まあ今の日本みたいに汚職・買収といった悪業が横行しており、わしは大きく失望させられたのじゃ。そんなわしを救ってくれたのは、やはり音楽だったのじゃ。そんな時にわしが尊敬してやまないアントン・ルビンシテイン先生が、ペテルブルグに音楽教室を創設されたのじゃ。わしは、矢も楯もいられずにその教室に入り、ザレンバ先生について学んだのだったのじゃ。そしてその音楽教室を基盤の上に、ペテルブルグ音楽院が創立されたのじゃ。そこでわしもこの音楽院に入り直し、役人生活と音楽の勉強との二足のワラジを履くようになったのじゃ。

初めのうちはわしも音楽の道で食っていけるまでは、役人生活との二足のワラジを履き続けるつもりだったのじゃが、本格的に音楽の修行を行っていくにはやはり無理ということが解ってきたのじゃ。そこで良き理解者だった父親の厚意にも甘えて、本気で音楽の道を歩み始めたのじゃ。

音楽院では様々な経歴を持つ多くの友人ができたのじゃが、その中でも特に親しくなったのは、5歳年下のラローシじゃった。ラローシからの影響は、音楽院から授かった成果を更に磨き上げるのに、大きく役立ったのじゃった。

わしは、何度かルビンシテイン先生や、ザレンバ先生のご機嫌を損ねたことがあったのじゃが、ま、なんとか優秀な成績で1866年にこの音楽院を卒業したのじゃ。

そして、わしの卒業を待ち受けていたのが、ルビンシテイン先生の弟のニコライじゃった。ニコライはモスクワ音楽院の創設し、片腕を探しておったのじゃが、わしも興味があったので音楽理論の教師として引き受けたのじゃ。翌々年はわしにとって、印象深い年であったのじゃ。最初のオペラ「地方長官」の完成、第一交響曲の初演、オペラ歌手デジーレとの婚約等まさに充実した年だったのじゃ。デジーレとは結局、色々なことがあって最終的には彼女の方が身を引く形で終わってしまった。このショックは言いようのないものがあったのじゃ。じゃが、わしも創作活動に打ち込むにとによって、それを忘れたのじゃ。